満月教授、ウサギに申す。

生活、社会、政治、健康、その他あらゆる気になることについて嘘偽りなく、本音で楽しく語ります。平和で繋がりの豊かな世の中を目指して。

オリンピック放送にNHKが力を入れる隠された理由

1.オリンピック報道は一石二鳥なのです

為政者は、国民が政治的に無関心になることを一番喜ぶという話が昔からある。

関心がなければ批判も生まれない。批判がなければ変化も望まれず、悪政であっても為政者の地位は安定して継続する。

 

古代ローマの風刺詩人として有名なユウェナリス(60-130)は、

パン(=最低限の食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、市民が政治的盲目に置かれると揶揄した。

 

そんな風に関連付けると、今日のオリンピックは、もしかすると古代ローマ時代の「サーカス」と同じではないか、と思う時がある。

 

オリンピックでは国旗が揚がり国家が斉唱されてナショナリズムが刺激される。

日々の暮らしや政治に不満があったとしても、自国選手の活躍による誇らしさから溜飲が下がる。

いつしか悪政へのフラストレーションも薄められてしまう…とすれば、政治家にとってオリンピックは、国政批判を和らげ国民を一つにまとめられる点で、一石二鳥である。

為政者にとって、こんなに美味しいイベントはないのであろう。

 

美味しいといえばーーー

赤いサイロ(北海道のチーズケーキ)をモグモグするカーリング娘に目を奪われているだけではいけないことを、賢明な国民ならば察知すべきなのであろう(笑)。

 

本題は、NHKである。

平昌オリンピックが始まる前に、NHKはかつてない程、オリンピックを盛り上げるのに一生懸命だったように見えた。

出場選手の栄光の軌跡や練習状況を事細かくなんどもなんども繰り返し伝え、メダルへの感動ストーリーを演出して盛り上げようとしていた。

実際に始まれば始まったで、オリンピックハイライトや中継の間にも多くの芸能人をスタジオに招くなどして、これまでにはない力の入れようだった。

巨費を投じて五輪の放映権を獲得したのだから、視聴者に沢山見てもらわないと困る、のであろうし、視聴率が上がればNHKの必要性を認識して貰えて受信料契約も進むという組織戦略上の計算もあったであろう。

 

なるほどオリンピックという番組コンテンツは、事前に盛り上げておけばあとは中継するだけで視聴率が荒稼ぎ出来る。しかも政治報道のように、お上に気をつかった挙げ句に文句を言われるような面倒くさいコンテンツとは違うので、NHKにしても一石二鳥の番組なのかもしれない。

 

ただNHKの社会的使命を考えた時に、オリンピック放映に熱心なあまり国民の政治的無関心を招くとしたら、ユウェナリスが危惧する状況を公共放送局が率先して作っていることになるが、それはけっして良いこととはいえないはずである。

 

 

2.NHKニュース番組は、政治報道がお嫌いなのですか?

 

2月25日に平昌オリンピックは閉幕した。冬の熱い戦いは終わったのである。

 

宴の喧騒から冷めて落ち着いた後に、公共放送局としてのNHKは、社会問題や政治的な関心を高める報道をするのだろうか。

 

その意味もあって私は、オリンピック終了後(2月28日)のNHKニュース番組をチェックした。

 

なぜ2月28日だったのかというと、この日は、国会衆議院予算委員会で「働き方改革」関連法案を巡り、国会が混乱した。

裁量労働制に関する不適切データ問題が再浮上した挙げ句、予算委員長の解任決議案が出されるなど、スッタモンダした挙げ句に夜になっても本会議が終わらず継続するという異常事態であった。

 

夜のニュース番組の放映時にも、国会が開かれている最中だった訳だ。

公共放送局ならば、当然、ニュースの冒頭に国会の生中継があっても良いのではないかと思っていた。

 

ところが、国民生活に直結するはずのこの重要なニュースを、NHKのニュース番組では、トップはおろか2番でも3番でもなく、5番目にもってくるという軽んじた扱いをとった。

 

9時台のニュース番組(ニュースウォッチ)の放映ニュースの順番と時間を紹介しておく。

 

①春の強風、春一番の天気(10分)、

②新幹線の台車亀裂の原因調査結果発表(5分)、

③米国の政府高官が最高機密情報倫理に抵触する疑い(5分)、

④iPS細胞の心臓病治療応用を阪大の審査委員会が了承(5分)

⑤国会で来年度の予算案が衆議院本会議で可決する見通し(5分弱)

 

国会報道の取り上げがこれほど後回しにされたのは、予想外だったし、時間も短くて舌足らずな内容であった。

予算委員会の委員長解任決議まで飛び出した混乱の雰囲気はきれいに薄められ、不適切調査データ問題の扱いの顛末も十分に伝えられなかった。

国会で何があったのかをもっと詳しく知りたいと思ったところで、別のニュースにサッと切り替わってしまった。

 

この日取り上げられた幾つかのニュースは、国会報道よりも重要性があったと言えるのだろうか。

 

①春の強風、春一番の天気(10分)は、国民がテレビで知りたいであろう即時性のある情報なので一番目に放送することはまだ理解できる。

②新幹線の台車亀裂の原因調査結果発表(5分)は、大事なことであるが、国会よりも先に来る重要性があるのかどうかは疑問である。

③米国の政府高官が最高機密情報倫理に抵触する疑い(5分)に至っては、「詳しいことはわかっていない」と最後に締めくくるレベルの話だった。

そして④iPS細胞の心臓病治療応用を阪大の審査委員会が了承(5分)は、緊急性のまったく無い一大学の審査委員会のニュースに過ぎずこの日の国会の問題を差し置く内容とは思えない。

 

米国高官の資質問題を気にするなら、北方領土色丹島を「しゃこたんとう」と言い間違えたこの日の沖縄北方担当相の就任会見ニュースの方を取り上げてほしかった。外国ではなく自国の政治家の資質を、日本国民なら気にするべきであろう。

 

NHKの国会報道に関する私の疑問が独りよがりでないかを確認するために、その夜のテレビ朝日報道ステーションと、TBSのニュース23をチェックした。

 

民法のニュース番組の方では、トップは天候のニュースだったが、二番目には、やはり国会ニュースを持ってきた。どちらの放送局も、である。

もちろんNHKよりもはるかに時間を使って詳しく報道していた。政治状況やその背景も可能な限り解説が尽くされていた。視聴者にとってよく理解できる内容だった。

ニュース番組、かくあるべしであった。

 

ここから導かれる推論は、NHKは国会や政治の問題をなるべく扱いたくない、ということである。

 

その姿勢は、「無党派層は寝ててくれ」と口を滑らせたかつての森元首相や、「政治に関心を持たない人が多いことは悪いことではない」と言い放った麻生財務大臣(いずれも与党・自民党)を思い起こさせる。

 

NHKのニュースは、日本の国会の政治の問題や混乱には目を向けさせたくないために、別のニュースをできる限り取り上げると勘繰られても仕方がないのではないか。

 

ちなみに、今日(3月6日)の9時以降のニュース番組をテレビ欄から拾ってみると、やはりNHKは国政問題を避けているように見えてしまう。

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国政に関心を向けさせたくない力が、政権与党から、かけられているのか。

流行語になった忖度は去年だけでもう沢山だと国民は感じているはずなのに。

 

 

3.危ないNHKの生きる道を探しましょう

 

昨年、NHKの受信料聴取について、最高裁判所の合憲判決が出た。

合憲の理由は、NHKが公共放送であるから、国民は受信料を納めなければならないというものだった。

その判決後、NHKの新しい受信契約数は5倍に増えて、これまで受信料を払っていない人が沢山申し込むようになったという。

 

しかし「公共放送」とは何かをめぐっては実は色々と議論のあるところだ。

しかるに最高裁判決の影響でこのまま受信料契約数が増えていくのは、NHKの公共放送としての在り方の問題を置き去りにしてしまうことになり、かえってよろしくないのではないか。

今こそ、NHKの公共性を論ずる時だと私は思う。

 

次回のブログに、NHKが公共放送として生き残っていく道について、別の観点から考えてみたい。

 

以下は、余談です。

昨年8月の「おはよう日本」というNHKの番組で、解説委員の刈谷富士雄氏は、オリンピックのメリットとして真っ先に国威発揚を挙げてしまったそうだ。

しかし五輪憲章の中でオリンピックは国際相互理解の促進こそ謡っているものの、国の威信をかけるなどという前近代的な考え方をとっていないことは有名である。

ヒットラーがオリンピックを国威発揚の場として利用し後に批判されたことも多くの人が知っているはずである。

 

国際関係がキナ臭くなっている今日、国威発揚云々というのも何だか物騒だ。

ある意味で選手がやっているスポーツに過ぎない競技の勝敗に一喜一憂しすぎるマスコミの過剰な報道姿勢も、そろそろ改めるべき時なのかもしれない。

 

NHKの問題の根の深さは、私たちが想像するよりももっと深刻で危ない、ということで、なければ良いと願いつつ、

 

公共放送とは何か、公共放送のあるべき姿を考えたい。

落合陽一からリツイートされて喜んで、自動RTと知って落ち込んで、結局喜ぶことにした話

1.リツイートしたのは誰か

こういうことって、よくあることなのだろうか? 私のツィートが、落合陽一氏本人からリツィートされた!!!

ブログだけでなくツィートも初心者の私には正直よくわからないが、思いがけないことに年甲斐もなく興奮した。

 

本人が読むことを想定せずに書いたこともあり、「しまった!」とも思った。

その理由は、落合氏について「表情が不気味」だとか、「ブラック・ジャックみたい」などと表現したから(笑)。

そんな文を書き、唇を噛み、頭を掻いている。

こんなところで、印を踏んでる場合かと思いつつ、地団駄踏んだ、も思いついた(笑)。

 

「表情が不気味」より、「憂いの表情から奥深い精神性が感じられる」くらいにするべきだった。

ブラック・ジャック」じゃなく、「ブラット・ピットみたい」でも良かった、かな。

 

 

ところで、このツィートの出所をめぐって、ちょっとした疑問というか、家庭内論争が起きた。

 

疑問君「落合陽一のリツィートとはいえ、もしかすると機械によって自動で抽出してリツィートされたものかも。全文を読んだとも限らないし」

 

反論君「いやいや、落合氏のリツィートは数時間が経過してからだったので、機械の仕業ではなく人がやったと思うよ」

 

疑問君「時間差でリツィートするプログラミングもありうる、ご本人とは言い切れないのでは」

 

反論君「機械が勝手にやっていたら、落合レベルならネット上はリツィートだらけのカオスになると思うけど。」

 

疑問君「内容を精査してリツィートするプログラミングだってありうる、かも。」

 

論争に終止符が打たれないので、ここは一つ、私が落合氏本人に尋ねるゾ・・・・

という程のコネもないので、この際、本人がやってくれたと、ひたすら信ずることにした。「信ずる者は、救われる」らしいから。

 

ところが、落合氏のツイートで、次のようなものを発見。

つまり、今回も、自動でRT(リツィート)やられた疑惑は高まったということ、なのかも。

 

 

2.機械がやることへの有り難みは将来どう変化するのか

疑問君は、次のようなコメントもした。

機械だろうが本人だろうが、その両方だろうが(今回は多分両方だと思う)、やった仕事としては同じだと考えることもできるよね

 

なるほど、確かに今回機械がやっていたとしても、落合氏のツィートとして拡散したのは事実だし、広く周知されたという点においては変わらない。

 

けれども、機械がやろうが人間がやろうが変わらないという点について、このようなケースではどうだろうか。

たとえば私たちは、通過する扉が自動で開いたのと、人が開けてくれたのとでは、相当に印象が異なる。自動ドアは勝手に開くという感覚だが、人間だったらわざわざ開けてくれたと受け取るのが普通で、有り難みは比較にならない。

 

つまり機械がやったことと人間がやったこと、同じ作用が生じたとしても、受け取る気持の方には違いがあるのではないか、という疑問が生まれる。

それとも機械との親和性が上がる将来は、この気持や感覚さえも今とは変わるものになるのか。

 

たとえば現代の感覚ならば、腕の不自由な虚弱男性に装着されたロボットアームが、通常の人間では抱えきれない程の重い荷物運びを手伝ってくれたとしても、私たちは、男性に感謝するのであって、ロボットアームそれ自体に普通は「ありがとう」とは思わない。

結局、機械であってもそれを動かしているのは人の意思なのだから、意思決定をした主体者にこそ感謝していることになる。

 

しかし、もしもその意思決定に、機械が関与していたとしたら、どうだろう。

たとえば荷物運びに困っている人を気づかせたのが遠距離まで見通せるような高性能ヘッドマウントディスプレーだったとしたら。

あるいは認知症の男が付けるヘッドマウントディスプレーがAIを組み込んでいて、誰かを助けたら良いことがあったという記憶から、今回も助けようという意思決定をさせたとしたら…。

 

そこまで機械と人間がつながれば、機械は操られるだけのものという感覚は過去の時代のものとなる。

つまり、人間の中に機械が内蔵され、意思決定にまで機械が関与する度合いが上がり、機械が人の決定や行動を方向づけていく。

他方、機械の方も高度なAIによって性能が上がり、人間らしい応対が可能になり、機械なのにより人間的な何かが感じられる存在になっていく。

 

私の例を紹介する。

我が家にロボット掃除機のルンバが来てから、私はルンバと共に掃除を勤しむようになっている。ご承知の通りルンバは旧来の掃除機と異なり自律的に動く。文句も言わず愚直に働き怠けない。ルンバ様には頭が下がる。掃除メイトとして同志に近い感覚さえ抱いた。ルンバ製造会社名の「iRobotアイロボット)」に「愛」を想起した程である(笑)。

 

落合氏も本の中で記していた通り、将来は孫ロボットにいやされる高齢者がいても不思議ではない。

 

機械だからといっても有り難みが減るというのは、ナンセンスな時代に確実になるだろう。機械と人間との溝がなくなるのだから。

 

3.AI時代にも喜びを高め感謝の念を持ち続けるために

先に書いたルンバが我が家に来てくれたのは、そういえば前回の冬季オリンピックの頃、つまり4年ほど前である。

しかし物珍しさによる興奮、熱心な掃除ぶりへの感謝の念は、正直なところ最近やや変化しているのも事実だ。旧来の掃除機と比べての貢献度は段違いのはずなのに、以前に感じていた感謝の気持や仲間感覚は下がっている気もする。

愛は時間が経つと冷めるスープのようなものなのだろうか(苦笑)

 

結局、ありがたみを感じたり、感謝したりするかどうかは、そこに希少性を感じられるかどうかなのかもしれない。

やってもらったことをめったに起こらないことで貴重だと思えれば感謝するだろうし、よくあることで当然と認識すれば感謝の念も下がる。

「ありがとう」は、有り難うであり、正に有ることが難しいという認識から生まれている語義通りである。

 

だから問題なのは、行為主体が機械か人間かではない。なされた行為を受け取る側の認識の違いに因ることになる。

つまりは、人に対すると同様に、機械にだって感謝することもあれば、たとえ高度なで手間のかかる作業をしてくれたとしても、それを当然であり普通に思ってしまい感謝の思いに至らないこともあるのだろう。

 

では、今回の落合リツィートについて私はどう考えるべきか。

機械がやったのか、本人がやったのかは、この際、気にせず、それをどう受け止めるべきかが大事だということ。

もちろん意思決定を含んだものなのかどうかも気にしない。問題なのは、有り難いと思うか、否か。

 

私は・・・、もちろんーーーー有り難いと受け取ることにする!

なぜって、感謝して喜んだ方が絶対幸せなはずだから。

意外な結論になったが、生きていく上で大事なことは、幸せかどうか、喜べるかどうかだと思うから。

この真理はおそらくいつの時代も変わらない、普遍的なもの。

だから、幸せになる選択をする。

 

AI時代でも、機械、人間の別なく、感謝しましょう。

 

3.余談

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落合氏のリツィートによって、前回の私の記事(落合陽一『日本再興戦略』書評と2つの疑問点)へのアクセス数は過去最高を記録。

記事をアップしてからの数日間だけでカウントは500を超えた

もちろん感謝感激雨あられ。満月教授、満足享受なのです。

落合陽一『日本再興戦略』書評と2つの疑問点

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1.なぜ読み、ブログにまとめたのか

書評を書いてほしい」と頼まれた。

著者ご本人から・・・ではない。私の例の息子から(笑)、だ。

社会的に注目されている人が出版したばかりの本だから、ブログに載せてはどうだろう?」、というのがその理由だった。

本業の仕事であれば別だが、プライベートな書評書きのリクエストに時間を割く余裕はない。LINEメッセージの返信には、「寝ている人」の絵文字のみを素っ気なく送り、息子とのやりとりを終わらせた。

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が、しばらくして考え直した。

そのような慣れ親しんだ至極まっとうな判断を変えてみよう! 

なぜって、今宵は「満月だから」(満月教授というペンネームでやっている)という冗談はともかく、第6回目のブログで記したように変化していくことは大事で、変わらない限り勝負には勝てない(って、そもそも何の勝負だ!笑)。

まして、家族の一押し、子どもからのお願いは親として引き受けてしまいがちなものなのです。これも第1回目のブログで触れましたね。

 

そのような、紆余曲折があっての今回の記事。

その程度の動機で載せる書評であることを最初にお断りしたい。

しかし、だからこそきっと、さほどの興味が著者にない人も、読んでもらいやすいものになるかもしれない。掛け値なしの評価(書評)を書きたい。

 

2.著者について

落合陽一、30歳。

黒服がお好きらしいし、孤高に生きるイメージは、手塚漫画のブラック・ジャック

顔の表情もややエキセントリックというか不気味で、何かをやらかしそうなただならぬ雰囲気を感じる。

肩書としては、筑波大学図書館情報メディア系准教授、学長補佐、デジタルネイチャー推進戦略研究基盤長も兼ねる。ピクシーダストテクノロジーズ株式会社 代表取締役社長。つまり研究者でありメディアアーティストであり、実業家、経営者でもある。多才だ。

 

ちなみに、中年以上の方なら、落合信彦という人を覚えているだろうか。

国際政治ジャーナリストだが、アサヒスーパードライのTVコマーシャルに派手に出演して強烈な印象を残した。そのご子息である。

 

3.構成および著者の問題意識

第1章 欧米とは何か

第2章 日本とは何か

第3章 テクノロジーは世界をどう変えるか

第4章 日本再興のグランドデザイン

第5章 政治(国防・外交・民主主義・リーダー)

第6章 教育

第7章 会社・仕事・コミュニティ

天下国家を論じて他方面にまたがる領域をカバーし素描している。

マルチな分野での活躍がなければ書けないと、本人が豪語する通りであろう。

 

彼の問題意識や執筆動機は次のようなものであると理解した。

日本を何とかしないといけないという危機感はあるはずなのに、イノベーティブじゃないとか、生産性が低いとか、少子高齢社会であるなど、相当にネガティブな日本についての意識が蔓延している。しかしそれは旧来の思考や認識に縛られた誤った見方であり、むしろ日本がこれから発展していく上で好条件を揃えた可能性が詰まった国。だから戦後に日本人が作った悪しき精神構造を変え、政治経済社会システムやテクノロジーの更新をどんどん行っていくべきだ、というもの。

 

様々な分野での経験に裏打ちされた新しいパラダイムが提示されているが、大変読みやすくて、すぐに読み通すことができた。

感想は、日本の未来を見据えて読んでおくべき本、暗いと言われる日本の未来に希望を抱かせる本だった。

 

4.本の概要

まず彼は、日本人が古来より持っていた自然観、国家観、宗教観などを掘り起こして日本人論を語る。日本人が明治以降お手本にした「欧米」という概念のナンセンスさを洗い直す時期が来ていると説く。欧米を真似しなくても、日本人の考える基軸はあるという立場で、歴史をたどり、東洋の持つ潜在的な可能性を語り、日本という国の伝統や文化、日本人の宗教や価値観、労働観、審美眼などが、現代において持つ優位性を説明する。

今後は、お家芸ともいえるテクノロジーの開発を進めながら、日本国の伝統に合う自律分散型の統治機構(地方分権)や、ローカルな経済圏を作るための仮想通貨などの自立的な経済システムトークンエコノミー化を積極的に導入することが、日本再興の鍵であることを訴えている。

 

5.個人的に面白かったこと

私がユニークだと強く感じたのは、日本が抱える「人口減少・高齢化」こそが、チャンスだという指摘だ。

彼曰く、日本では機械化によって仕事を省人化しても、ネガティブな反応ではなく、むしろ人口減少に伴う労働力問題解消の切り札、として歓迎される。人口減少や高齢化が他国に比べて早く進むため、問題を解決するための様々な試みや新しい社会実験をやりやすい利点がある。少子化で教育コストを十分にかけられるので、変革に対応できる優秀な人材を生み出しやすいのもアドバンテージになる。つまりは少子高齢化や人口減少は機械化というテクノロジーによって対処できる時代になるので「何の問題もありません」。むしろ未来は人口増加の方が、労働機会を奪う意識から、機械化を阻む力が働きかねないので大変という見方だ。

今ホワイトカラーのする窓口業務などはほとんど機械化され、運搬業務も機械化できる。介護もロボットに任せられる。

日本人はもともと機械フレンドリーな国民性を持っているので、拒否反応もないだろうという日本人論も添えられている。

 

機械と人間の融合が進むことの強調は、研究者であり実際にそのようなプロダクトを開発・製品化を目指している著者の実感からだろうから、興味深かった。

今、視力を補うメガネが当たり前のように、将来は、体が動かなくなったら体に車輪をつけ、腕が動かなくなったら外骨格でロボットアームをつけるといったように、機械のパーソナリゼーションが当たり前の発想になると断言していた。認知症によって1日分しか記憶がもたない老人がいても、それをヘッドマウントディスプレーが補完するので大丈夫だそうである。

人間が機械化され、人と機械の親和性があらゆるレベルで上がっていく。

 

2040年の日本は独り暮らしの割合が4割になるというのが、先日発表された国立社会保障・人口問題研究所の推計である。

そのときに、身寄りがない高齢者でも、ロボットの孫と一緒に暮らしているから安心ということ。日本は世界の高齢者にとっての楽園になるかもしれませんとさえ言う。

 

人口減少は労働力と購買力を減少させるので大きな社会問題に普通はなるのだが、機械が仕事をするので労働力問題は解消し、需要の低下も高齢化に取り組んだ成果や商品が海外で売れるために問題にならないどころか経済的に豊かになるそうだ。

 

6.2つの疑問

仕事柄、本を執筆する大変さをそれなりに知る者としては、これだけの広い分野に関する記述をよくまとめたなと率直に感じた。

ただその一方で、もう少し説明が欲しい、細部でもっと詰めるべき点も感じたので、少しだけ記す。

 

①格差問題、富の再分配について 

日本国全体の問題は論じられているが、個々人の生活レベル、格差問題については触れられておらず、富の再分配問題が気になる。ロボットが発達して使い勝手がよくなったとしても、その時にロボットを入手できる高齢者は一体何割いるのだろう。儲かるのは資本家だけ、というおなじみの構図にならない懸念はどう払拭されるのだうか。

 

この点と重なることだが、彼は、江戸時代に様々な作業に従事した百姓が可変性の高い労働力を有していたと持ち上げて、今後の多くの国民の生業モデルのように記す。

画一製品の大量消費というビジネスモデルは終わり、多様化した個別ニーズの需要に対応するような生産システムが求められる未来には、様々な業態の求めに応じて行き来きできる労働者が求められるという訳だ。

自分探しをして迷い続ける人が多い混迷社会よりも、イキイキと百の生業をこなせる生き方が可能になる方が幸せであると説く。

が、「百姓」では、幸福のイメージが湧きにくいのも事実だ。そもそも百の仕事とはどのようなものなのか。「水飲み百姓」という言葉がある通り、当時の百姓の生活レベルはきわめて低く、飢饉も頻繁にあり多くの農民が餓死している。士農工商の「カースト」についても彼はよいものとして例にあげているが、二番目に農民が置かれたのも、武士にとって飯のタネを供給するから大事といった程度の意味で、けっして工や商よりも地位が高かったり豊かであったりした訳ではない。

喰うや喰わずの貧乏を想起する昔の「百姓」のような働き方が求められるというのではないと思うものの、この比喩はあまり魅力的には映らなかった。

 

単純作業が機械化されている現代において格差が広がっているように、富の再分配問題がどのように解決していくのかは、多くの読者が気になるはずである。

もちろん国全体が真の意味で豊かになれば、そのようなことは杞憂に終わるのかもしれないが、「空前の好景気」という割に庶民の暮らしは豊かにならない昨今の状況をみていると、著者が説くバラ色の未来を読者も想像するためにもっと説明が必要だと感じたのも事実である。

 

中央政府既得権益を簡単に手放すのか?

地方分権を中心とした非中央集権化が日本浮上の鍵であるという文脈の中で、その政治体制の変革を阻む勢力として、地方自治体のみを挙げて、容易に実現できるとしている。自治体は、これまで努力をしなくても税金が入ってきて安穏としていたから、抵抗勢力になるかもしれないとの見方だ。

一方で中央政府霞が関)の方は、「財政が逼迫する中で地方に交付金を払い続けるのは難しい」から、地方分権が進むのは「願ったり叶ったりではないでしょうか」と楽観視している。

本当だろうか。

何か事あればすぐにそれを利用して既得権益を拡大したり天下り先を増やす体質の官僚達が、そんなにあっさりと分権化を認めるのかについて、記述量も少なく説得力も乏しすぎる。私には大いに疑問であった。

落合氏の説く自律的な経済圏がローカルに生まれていけば、おのずと中央政府である霞が関の財力や影響力が低下していくということなのだろうか。

いずれにしてもこの国は官僚の意向や力が本当に大きく影響してきた。一回の政権交代ごときではどうにもならなかったのは周知の事実だ。

だから、霞が関をどのように誘導して変えていけるのかは、日本変革の実現性が左右される大きな問題であろう。

 

7.著者からのメッセージ

以上、紹介できた内容は一部にとどまり、この本には、他にも興味深い記述が多い。

私の目を引いたもの、共感したものを思い出す限り項目のみをランダムに記すなら…

「西洋的な個人」の時代不適合性、 日本は超拝金主義、 

MBAよりもアート、東洋のイメージをブランディングする、

防衛軍も機械化、 仲良くしていくべき国はインド、

英語力よりも日本語力、中流マスメディアの罪、

「自分探し」よりも「自分ができること」から始める

いずれもなるほどと思ったし、著者の発想のバックにある価値観や、合理主義・現実主義的な視点や判断も垣間見得た。

 

彼が終章で記しているメッセージ性の高い文章も紹介しておこう。

これからの時代においては、いろんなリスクばかりを考えて、なかなかチャレンジできないと、機械と同質化する一方になってしまいます。

 

最近、僕は「人類のよさは、モチベーションだ」とよく言っています。

 

読者のみなさんにあらためて言いたいのは「ポジションを取れ。とにかくやってみろ」ということです。ポジションを取って、手を動かすことによって、人生の時間に対するコミットが異常に高くなっていきます。ポジションを取るのはけっしてむずかしいことではありません。結婚することも、子どもを持つことも、転職することも、投資をすることも、勉強することも、すべてポジションを取ることです。

 

最後は、彼が過去にツイッターに書いた檄文をそのまま載せていた。

ポジションを取れ、批評家になるな。フェアに向き合え、手を動かせ、金を稼げ、画一的な基準を持つな、複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分なりの価値を見いだして愛でろ。あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ。明日と明後日で考える基準を変え続けろ。

 

彼の座右の銘変わり続けることを変えず、作りつづけることをやめないだそうだ。

 

8.謝辞

実は、私にはもう一人、息子(大学生)がいる。その息子が落合陽一を強くリスペクトしているのだ。

息子は、落合氏を見習ったのかどうか、今、コンピューターを使って何やら新しいプログラミングを始めているそうだ。彼なりに社会を変えたい人の役に立ちたいと思い行動を起こしているそうで、親としてその積極的な姿勢に率直に嬉しいと感じている。「満月」というより「月並み」な親の感想になったが(苦笑)

 

とにもかくにも、息子の分も含めて、「落合さん、ありがとう」とお伝えしたい。