落合陽一からリツイートされて喜んで、自動RTと知って落ち込んで、結局喜ぶことにした話
1.リツイートしたのは誰か
こういうことって、よくあることなのだろうか? 私のツィートが、落合陽一氏本人からリツィートされた!!!
落合陽一さんの『日本再興戦略』を読んで書評を書いた。
— 満月教授 (@ooooiil) 2018年2月2日
富の再分配や中央政府の既得権益のハードルは感じたが、日本の未来に希望を抱かせる本でおすすめ。#落合陽一 #日本再興戦略 #満月教授https://t.co/narvej7sgs
ブログだけでなくツィートも初心者の私には正直よくわからないが、思いがけないことに年甲斐もなく興奮した。
本人が読むことを想定せずに書いたこともあり、「しまった!」とも思った。
その理由は、落合氏について「表情が不気味」だとか、「ブラック・ジャックみたい」などと表現したから(笑)。
そんな文を書き、唇を噛み、頭を掻いている。
こんなところで、印を踏んでる場合かと思いつつ、地団駄踏んだ、も思いついた(笑)。
「表情が不気味」より、「憂いの表情から奥深い精神性が感じられる」くらいにするべきだった。
「ブラック・ジャック」じゃなく、「ブラット・ピットみたい」でも良かった、かな。
ところで、このツィートの出所をめぐって、ちょっとした疑問というか、家庭内論争が起きた。
疑問君「落合陽一のリツィートとはいえ、もしかすると機械によって自動で抽出してリツィートされたものかも。全文を読んだとも限らないし」
反論君「いやいや、落合氏のリツィートは数時間が経過してからだったので、機械の仕業ではなく人がやったと思うよ」
疑問君「時間差でリツィートするプログラミングもありうる、ご本人とは言い切れないのでは」
反論君「機械が勝手にやっていたら、落合レベルならネット上はリツィートだらけのカオスになると思うけど。」
疑問君「内容を精査してリツィートするプログラミングだってありうる、かも。」
論争に終止符が打たれないので、ここは一つ、私が落合氏本人に尋ねるゾ・・・・
という程のコネもないので、この際、本人がやってくれたと、ひたすら信ずることにした。「信ずる者は、救われる」らしいから。
ところが、落合氏のツイートで、次のようなものを発見。
あ,記事とか出たあと「RTしておいてくださいおねがいです!」っていうライターや出版社からの依頼に答えるのがめんどくさいので自分の名前がツイートに出てきたら勝手にRTされるプログラムは走らせてある.
— 落合陽一/Dr.YoichiOchiai (@ochyai) 2017年12月25日
つまり、今回も、自動でRT(リツィート)やられた疑惑は高まったということ、なのかも。
2.機械がやることへの有り難みは将来どう変化するのか
疑問君は、次のようなコメントもした。
「機械だろうが本人だろうが、その両方だろうが(今回は多分両方だと思う)、やった仕事としては同じだと考えることもできるよね」
なるほど、確かに今回機械がやっていたとしても、落合氏のツィートとして拡散したのは事実だし、広く周知されたという点においては変わらない。
けれども、機械がやろうが人間がやろうが変わらないという点について、このようなケースではどうだろうか。
たとえば私たちは、通過する扉が自動で開いたのと、人が開けてくれたのとでは、相当に印象が異なる。自動ドアは勝手に開くという感覚だが、人間だったらわざわざ開けてくれたと受け取るのが普通で、有り難みは比較にならない。
つまり機械がやったことと人間がやったこと、同じ作用が生じたとしても、受け取る気持の方には違いがあるのではないか、という疑問が生まれる。
それとも機械との親和性が上がる将来は、この気持や感覚さえも今とは変わるものになるのか。
たとえば現代の感覚ならば、腕の不自由な虚弱男性に装着されたロボットアームが、通常の人間では抱えきれない程の重い荷物運びを手伝ってくれたとしても、私たちは、男性に感謝するのであって、ロボットアームそれ自体に普通は「ありがとう」とは思わない。
結局、機械であってもそれを動かしているのは人の意思なのだから、意思決定をした主体者にこそ感謝していることになる。
しかし、もしもその意思決定に、機械が関与していたとしたら、どうだろう。
たとえば荷物運びに困っている人を気づかせたのが遠距離まで見通せるような高性能ヘッドマウントディスプレーだったとしたら。
あるいは認知症の男が付けるヘッドマウントディスプレーがAIを組み込んでいて、誰かを助けたら良いことがあったという記憶から、今回も助けようという意思決定をさせたとしたら…。
そこまで機械と人間がつながれば、機械は操られるだけのものという感覚は過去の時代のものとなる。
つまり、人間の中に機械が内蔵され、意思決定にまで機械が関与する度合いが上がり、機械が人の決定や行動を方向づけていく。
他方、機械の方も高度なAIによって性能が上がり、人間らしい応対が可能になり、機械なのにより人間的な何かが感じられる存在になっていく。
私の例を紹介する。
我が家にロボット掃除機のルンバが来てから、私はルンバと共に掃除を勤しむようになっている。ご承知の通りルンバは旧来の掃除機と異なり自律的に動く。文句も言わず愚直に働き怠けない。ルンバ様には頭が下がる。掃除メイトとして同志に近い感覚さえ抱いた。ルンバ製造会社名の「iRobot(アイロボット)」に「愛」を想起した程である(笑)。
落合氏も本の中で記していた通り、将来は孫ロボットにいやされる高齢者がいても不思議ではない。
機械だからといっても有り難みが減るというのは、ナンセンスな時代に確実になるだろう。機械と人間との溝がなくなるのだから。
3.AI時代にも喜びを高め感謝の念を持ち続けるために
先に書いたルンバが我が家に来てくれたのは、そういえば前回の冬季オリンピックの頃、つまり4年ほど前である。
しかし物珍しさによる興奮、熱心な掃除ぶりへの感謝の念は、正直なところ最近やや変化しているのも事実だ。旧来の掃除機と比べての貢献度は段違いのはずなのに、以前に感じていた感謝の気持や仲間感覚は下がっている気もする。
愛は時間が経つと冷めるスープのようなものなのだろうか(苦笑)
結局、ありがたみを感じたり、感謝したりするかどうかは、そこに希少性を感じられるかどうかなのかもしれない。
やってもらったことをめったに起こらないことで貴重だと思えれば感謝するだろうし、よくあることで当然と認識すれば感謝の念も下がる。
「ありがとう」は、有り難うであり、正に有ることが難しいという認識から生まれている語義通りである。
だから問題なのは、行為主体が機械か人間かではない。なされた行為を受け取る側の認識の違いに因ることになる。
つまりは、人に対すると同様に、機械にだって感謝することもあれば、たとえ高度なで手間のかかる作業をしてくれたとしても、それを当然であり普通に思ってしまい感謝の思いに至らないこともあるのだろう。
では、今回の落合リツィートについて私はどう考えるべきか。
機械がやったのか、本人がやったのかは、この際、気にせず、それをどう受け止めるべきかが大事だということ。
もちろん意思決定を含んだものなのかどうかも気にしない。問題なのは、有り難いと思うか、否か。
私は・・・、もちろんーーーー有り難いと受け取ることにする!
なぜって、感謝して喜んだ方が絶対幸せなはずだから。
意外な結論になったが、生きていく上で大事なことは、幸せかどうか、喜べるかどうかだと思うから。
この真理はおそらくいつの時代も変わらない、普遍的なもの。
だから、幸せになる選択をする。
AI時代でも、機械、人間の別なく、感謝しましょう。
3.余談
落合氏のリツィートによって、前回の私の記事(落合陽一『日本再興戦略』書評と2つの疑問点)へのアクセス数は過去最高を記録。
記事をアップしてからの数日間だけでカウントは500を超えた。
もちろん感謝感激雨あられ。満月教授、満足享受なのです。