笑えない私たち 失言や言い間違いの政治家、そしてNHKについて
1.政治家の失言
松本文明内閣府副大臣(自民)の辞表提出のニュースを、私はYAHOOニュースのヘッドラインで知った。
沖縄普天間飛行場への米軍ヘリ不時着を巡る共産党議員(志位氏)の国会での質問中に、松本氏が「それで何人死んだんだ!」とヤジを飛ばしたことの責任をとったという。
志位氏が普天間の無条件撤去を求めたのに対して、あのヤジは、人が何人か死ななければ普天間の無条件撤去はありえないと受け取られかねない失言であった。
松本氏は「何人も死なないと、辺野古移設に協力できないのかよ、と思ったから」とテレビ局の取材に答えたのだが、その趣旨であのヤジが出てくるのは意味不明であろうし、誤解を生む発言自体がそもそも政治家失格なのである。
2.NHKニュースの扱い
テレビニュースで確認したいと思い、その日の「NHKニュース9」を見たが、取り上げられなかったので驚いた。
比較のために、テレビ朝日の「報道ステーション」をチェックしたらしっかり放送していた。
国会議員の振る舞いや国会の動向は、民主主義国家の主権者である国民にとって重要であり、知らせるべきニュースだと私は感じたのだが、どうだろうか。
もしかしてNHKは、安倍政権内の失言問題はもうニュース性がないくらいに頻繁に起こっているから、という認識なのか!(笑)。
あるいは、この手のニュースは視聴率が稼げないからと思っているのだろうか。しかし視聴率を一番気にするべき民法でやれたことが公共放送でやれないはずはない。
やはり忖度か?
政権に対する一定の緊張感を持つことは、公共放送として絶対的な使命であると私は思うのだが。
籾井勝人氏がNHK会長だった時に特定秘密保護法制定について「決まったものはしょうがない」「政府が右というものを左ということはあり得ない」と言った事は有名である。
国論が割れた問題について政権寄りの姿勢を示したトップを頂く組織の危うさを憂慮した人は多かった。あれから会長は変わったけれど、このようなニュース選択を見る限り、「忖度」姿勢は消えていないと思う。
いっそお得意の「皆様のNHK」の看板を降ろして、「安倍様のNHK」とすれば良いと言いたくなる。
放送局の影響力の大きさを思う時に、北朝鮮の平壌放送を笑えない状態になることを懸念する。
NHKはもちろん国営放送ではない。
公共放送であることの意味をしっかりと考えてほしい。
3.本音が漏れた? 安倍首相の「言い間違い」
辞表提出の松本文明内閣府副大臣(自民)に対して、安倍首相は「緊張感を持って!」と諭したという。
失言閣僚をたしなめる時に政治家がしばしば使うフレーズだが、この言葉の意味は、一体何だろう?
それはもしかして緊張感を持たないリラックスした状態だと本音が飛び出して問題になるぞ、気をつけろ、ということなのかもしれない。
そういえば安倍首相は、昨日の国会質疑の際に、沖縄県の相次ぐ米軍ヘリコプターの不時着に関して、
「地元の懸念を軽減する」と、言うべき答弁を、
「地元の懸念を軽視する」と、言い間違えたという。
米軍基地問題に関して、彼が沖縄県の民意を重視しているようには、なるほどみえない。
昨年12月15日に米軍ヘリ落下物の問題で沖縄県知事がわざわざ上京して首相に面会を求めても拒否、その理由は多忙だから、だった。ところがその「多忙」な日に、漫才師ダウンタウン松本らの芸人達とは焼き肉を楽しむ時間があったという。
言い間違いといえば、今月24日の国会で安倍首相は、プライマリーバランス(基礎的財政収支)を「改善させている」と読むべきところを、「改竄(かいざん)させている」と誤ったという。
軽視、拒否、改竄…、なるほど緊張感を持たないと本音が出てしまう例だとすれば、実に恐ろしい。
政治家の資質を問うとき、トランプ大統領へのアメリカ国民の危機感を、私は他人事とは思えない。
卓球女子から学ぶ勝利のメンタリティー。正しく勝つために私たちがやるべきこと。
1.卓球女子からわかる勝利の方程式
「卓球 日本選手権」が、日曜日に行われたので観戦した。
今、日本の卓球界が熱いのは、皆さんも既に注目されているはず。
ご承知の通り、日本女子卓球は、石川佳純が第一人者だった。
ところが、昨年、弱冠16歳の平野美宇が石川に挑戦して優勝をもぎとる。
ところが今年はその平野を倒して同学年の伊藤美誠が優勝した。昨日のホットニュースだった。
まず簡単に3人の状況を説明しよう。
石川は、一昨年まで3連覇で無類の強さを誇った。そして昨年は4連覇(5度目の優勝)がかかっていた。が、新鋭平野に破れた。
その平野は、一昨年のリオデジャネイロのオリンピックで日本代表になれない悔しさをバネに、それまでのプレースタイルを改めて、守りから攻める卓球に変えた。卓球台に近づいてプレーするため機敏に反応をする体力強化をはかった。
その結果、第一人者の石川を破ることができた。弱冠16歳、快挙である。
伊藤は、一昨年のオリンピック選考会では同学年の平野よりも強くて団体戦のメンバーに選ばれメダルを獲得したが、昨年の日本選手権出場では、まさかの5回戦(序盤)で敗退。
それから一念発起して、彼女オリジナルの技である通称「美誠パンチ」に磨きをかけるだけでなく、もっと多彩な攻撃パターンを使える体力と技術を身につけ、今年優勝した。
ここから学べる教訓は、自分を変えることが、勝利につながる可能性を高めるということ。
プレースタイルはいうに及ばず、試合中でも、こまめに戦術を変えていた。そのことがメンタルも関わる繊細なスポーツである卓球の試合の中で、新しい流れを自分から呼び込むことで、勝利をたぐりよせていた。
逆に自分を変えることが難しいのは、人はうまくいくとずっとそれを続けたくなるということ。新しいものに変えることは当然リスクがあるので、勇気を出さないとなかなかできないから。今回のいくつかの試合でもそれが見て取れた。
つまり、大事なことは、守りに入らず、攻める。
成功していても同じことを続けるのではなく、新しいことに挑戦する。変わる勇気を持つ。
2.今以上の力をだすために
私の変化を伝える。
ブログを始めてから次は何を書こうかと、ネタを探すようになった。
日曜日の卓球のテレビ観戦中も、実は、ブログのためにメモなどをとる私。我ながら、けなげな作業、妻にも「大変ね!」と突っ込まれた(笑)
しかし別に大変とは感じなかった。
誰かのためになると思えば、人は、何かをやることを厭わないことがけっこうあるものなのです。
私の場合で言えば、まず授業がそうである。学生のために本を読むことや情報を収集することはいやではなく、むしろ楽しい。
研究活動である論文は、時に自分の業績のためという感じもあり、実はあまり熱心ではないものの、他人との共同執筆となると気持も変わり頑張ろうとする。
子どものためだと思えば身体が疲れて休みたくても一緒に外に出かけたり喜びそうなものを手に入れたりということは,親なら誰でもが経験するだろうし、私もそうだった。
結局、人間という生き物は、自分のためだと意識すると、億劫がったり面倒くさいと思ったりすることが少なくないが、他人のためならば、案外苦労を厭わないところがあるのではないだろうか。
東京オリンピックで金メダルをとるというのが、卓球界では合い言葉のようになっているという。
オリンピックは多くの人が注目し、勝てば喜んでもらえる人数や度合いが通常とはケタ違いである。
卓球選手たちの大きなモチベーションは、自分の名誉もさることながら、日本の多くの人たちを喜ばせたいということにあるのだと確信する。
地域のため、日本のため、世界のため…、
次元はそれぞれ違えども、自分に意欲と力を与えてくれるように意識することは、何かをやろうとする場合にとても大事なことなのだろう。
そして自分以外の誰かのためという時には、大抵、生産的・建設的なこと、社会に有益なことになる。
逆に自分だけのためであることは、私利私欲に走りがちで反社会的な場合にさえなる怖れもある。
だから、世のため人のためという姿勢は、とても大切なことなのだとつくづく思う。
ブログも誰かのためと思ってやっている私は、昨日テレビをみながら、画面を写真にとることをまったく厭わなかった(と、急に次元が小市民的になって恐縮だが・・・笑)。
加えて、卓球選手にならって何かを変えてみようということで、今回は文体を、ですます調から、変えてみた。文字の大きさに変化つけてみた。
「なぁーんだ、ちっちゃいこと」と、笑わないで下さいね。
今年、14歳で男子の優勝をなし遂げた張本選手は、野球選手イチローの次の言葉を大事にして練習場に飾っているという。
「小さいことを一つ一つやっていくことが、とんでもないところにいく近道」
チョエーと叫びながら(笑)、黙々と努力する第一人者に学びたい。
誰かのためにと私が実感できるブログにするために、これからも頑張ります。
オリンピックとまではいわなくても、読者の皆さんからの支持が高まることを内心願いながら(笑)。
【大学入試センター試験】試験場でアクシデント⁉︎ 試験の点数よりも大切な事
1.扉が開かない
もう10年以上も前のセンター試験でのこと、大学教員である私のその年の役目は、監督者ではなく、建物の入り口に立つ警備係でした。
試験初日の朝、受験生がほぼ建物の中に入り、屋外では姿をみかけなくなった頃、私はそこに立っている必要がないと判断したため、会場の中に入って見回ってみることにしました。
建物内は廊下に人影はなく、静寂そのもの。既に受験生が教室に入室を終えた後のようでした(試験前のあの例のシーンとした緊張感が漂う感じ。わかりますよね?)。
1階をちょっと歩いて、建て増しの建物との境にある奥まった階段を、ひょいと見上げた時でした!
そこに、参考書などを見ながらのんびりと立っている複数の受験生がいたのです!!
試験開始まであと10分足らずの時刻であり、既に監督者が問題を配りだしたであろう時間帯なのに、試験室の外にいるとは・・・・!!!
ありえない光景でした。
「君たち! 何故、入らないの?」と、私
「扉が開かないので…」と、一人の受験生
言葉を失いました。
その教室は、階段を上がったところにある唯一の試験室で、出入り口は2か所。
彼らが立っているのは裏側の方です。
表側の入り口はオープンな廊下につながる場所にありますが、裏側の入り口からは、他の教室の入り口は全然見えず音もまったく聞こえません。
ここで待っていた受験生たちは、他の試験室では既に受験生が入室済みであることに、気付かなかったようです。
受験生をかき分けてその入り口の前に立った私は、試験室の扉を、コンコンとノックします。
数秒待つと、中から、カチャンと鍵を開ける音がして、監督者の先生が怪訝な表情を覗かせます。
そして、私の後ろにいる10人ほどの受験生の塊(かたまり)を見つけて、唖然としていました。
教室内では他の受験生たちが既に着座して、説明を聞いておりました。
その先生によれば、受験生入室の時間がしばらく過ぎても、10人ほどの空席があるのでおかしいなぁ、と思っていたけど、説明を開始したところだったそうです。
まさか裏側の出入り口の鍵が閉まっており、こんな風に受験生たちが待っているとは想像すらしなかったとか。
当の受験生たちも、この教室の表側の入り口から大方の受験生が入室したことに思い至らなかったという訳です。
ゾロゾロと遅れて入ったこの受験生たちを受け入れたその試験室では、既に始められていた試験監督者の説明をもう一度繰り返さざるを得なかったので、
この教室のみ開始が5分遅れてスタートした次第です。
重大な事故につながりかねないハプニング。確かにそうでした。
でも私は、正直言って、内心ホッ、としたのも事実でした。
教室全体の開始がやや遅れたとはいえ、実質的に誰かが不利になるような大事には至らなかったから…(と書いてみて、前向き過ぎる見方で、我ながら苦笑いですが…)
実際、その受験生たちも不安そうにするでもなく、焦っている表情も見えず、至って穏やかな様子で、のんびりしたものでした。
それも私にとっては、大事ではなかったと思えた救いでした。
そう、救いのはずでした。
ところが!!!
2.新聞を開いたら
翌日の朝刊を開いて、びっくり!
「〇〇大学、試験会場でトラブル」という見出しが踊っています。
5分遅れの開始が、さも大事件であったかのような大きさで掲載されていました。
オイオイ、それは無いぜ、〇〇新聞さんよ
センター試験実施に関するネタ探しをしている新聞社にとって、「飛んで火に入る夏の虫」だったのでしょうか。
私は、センター試験に関する新聞の怖さを知りました。
(もちろん、試験時間をあのように遅らせる事がないように運営しなければならず、当局側として反省すべき失敗ではありますが。)
3.人生を開くために
今年のセンター入試も、トラブルが各地でけっこうあったようですね。
あの時とは、それこそ次元の違う本当に深刻な問題(不正行為や監督者の居眠りといびき等)も含まれており、正に重大な事案だと思います。
そういった不始末が起こらないように、5年後、10年後、センター試験の監督業務はどのように変わっているのでしょうか。
試験監督AIロボットなるものが登場してくれたら…、とも思います。ロボットであれば、居眠りもいびきも無縁ですし(笑)
もっともそのような優秀なロボットが出てくれば、監督業務だけでなく、授業も研究も肩代わりしてくれて、教員に対する大幅なリストラがなされてしまうのかも、ですが(汗)
最後に、この出来事に関連して、私が別の観点から感じて、考えてみたことを記しますね。
あの時、もしも私がたまたま持ち場を離れず、この受験生たちに気がついていなかったら、開始はもっと遅れ、もっと大きく問題視されていたことでしょう。
逆に、もしも私がもっと早くに受験生たちに気がついていたなら、あるいは試験室の監督者が注意深く後方の扉を確認できていたならば、このような失態はなかったとも思います。
そしてこの「もしも」の仮定を、受験生にも付け加えることが許されるなら…、
つまり、この受験生たちが、「扉が開かない」のはおかしいと時計を見ながら普通に気づいて、ただ待つだけでなく何らかのアクションを起こしてくれていたら、とも思ったりしたのです。
もちろん私は当事者であり、運営側の人間ですし、このようなことを言う資格はないのかもしれません。
けれども、あえて人生の先輩として若者に言わせて貰えるなら…、
自分で状況を的確に判断する注意力があると良かったなぁと思いました。
周囲の環境に目を向け自分で疑問を持って考えられる賢さや、自ら手を伸ばして動きだす能動性を身につけていってほしいなぁと思ったのです。
最高学府に学ぼうとする若者なら、そういうことこそできる人間になってほしい。
それは、試験の点数もさることながら、人生を切り開いていくためには最も大事なこと、だとも思うからです。そういう姿勢こそが人生を決めていくから。
キリストの教えにもありますよね。
「門を叩け、さらば開かれん」
最後は、やや飛躍した主張に変わってしまったかもしれませんが、
最近の学生諸君の受動的な大人しさに対し、ややもの足らなさを感ずる大学人からの、思わずこぼれ出た大いなるエールと受け止めてもらえれば、幸いです。